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波紋 [島での出来事]

父が突然他界して、一ヶ月経つところです。
あの島の大学院に戻るか戻らないか悩みながら、受験勉強を再開している中で、父が亡くなりました。
あの島での出来事はその後の波紋の波源だったのかもしれません。
父が亡くなりかけていることを知ったのは、昼前のニュースでした。
普段、事故などと無縁な場所だったので、速報として扱われました。
亡くなる二日前に、身体の痛みを訴えていましたが、ロキソニンを飲んで回復し、仕事もしていました。
亡くなる一日前に、胸の辺りがもやもやするからと自ら病院に行きたがり、処方された薬をその場で飲んだそうです。
病院では、処方した薬で症状が改善しなかったら、かかりつけの医者に行くよう言われたらしいのです。
後になって、異変があったのではないかと私と母は自責の念にかられました。
こうして書いていて、胸に突き刺す感じがあります。
医学的な専門知識があれば、ピンとくるところがあったでしょう。
ただ、亡くなった本人も含めて、言葉にしにくいものがあったのです。
私の場合、父が亡くなる二日前くらいに、夜、ふと
これからは、父を含めない、この三人だけになるのだなと過ぎりました。
父本人には、何かが起きるような予感がしていた様子だったのです。
亡くなった日も、父は
「なんなんだろうな、これは」
と呟いていたらしいのです。
生きている誰もが触れたことのない、言葉では表せない身体感覚に触れていたのではないかと考えるようになりました。
そもそも、私が大学院に行くきっかけとなったのは、この感覚を研究したかったからでした。
まさか、死ぬときにも感じられるとは夢にも思いませんでした。
もし、私が大学院を修了していたら、もう少し手立てがあったかもしれません。
私はなんとなく循環器の専門医をすすめましたが、以前そこに行って、休診だったので、どうかなと話していました。
母は私も行っていた胃腸の専門医をすすめました。
でも、その胃腸の専門医は本当に困っていたいたときに役に立たず、私は別の病院で救われました。
それよりも、父と母がこだわったのはいつもの医者だったのです。
いつもの医者は月曜日のみの先生で、近くにはいません。
もし、こだわりがなかったら、もう一軒病院に連れて行くことができたかもしれません。
家族が普段どういう風にコミュニケーションをとっていて、本当にそれがうまく機能していたのかという問題のようにも考えられます。
例えば、頑固な父と思い込みの強い母、私のような優柔不断な娘、家族に積極的に関わらない妹、です。
これを読んだ方は、わが家を教訓にして、家族を適切な病院にどう導くかを想定してみてください。
もし、死んだのが、父ではなく私だったら、この一ヶ月、母と父は大喧嘩になっていたでしょう。
私が島に留まっていて、あのまま大学院生だったら、私は母を責めていたはずです。
亡くなる前夜、父の声が途中から蚊の鳴くような響きだったのが、ラストサインでした。
紙一重の命を最後に救えるのは医者だけなのかもしれません。
ですが、紙一重のサインを適切なところに繋げなかったようです。


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